ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

いつだって背中からバッサリ。

 

僕がまだ高校生だった頃。

ラウド系のPVは白黒でギターとベースはシールドを波打たせるのが定番だった。

 

 頭一つ抜けるバンドはなく、深夜番組のEDに使われた曲が知れ渡って行く。そんな流れを壊したのはワンオクだったと思う。

 

 ナオトインティライミと清木場がクラスのヒットチャートをかっさらってく中、俺たちが!とデカイ音をかき鳴らすワンオクは、自転車通学を支える僕のiPodのスタメンになるのにそう時間はかからなかった。

 

バイトなんてハイカラなもん全くしてなかったけれど、なんとか近場のライブには多く参加し、痴漢やナンパが問題視される前の、ワンオク好きなやつに悪いやつはいないという空気感、熱気とワクワクであったまったスタンドで飛び跳ねていた。

 

思えば新譜を待ちわび、歌詞カードを食い入るようにみたバンドはワンオクとPeople in the BOXとバズマザーズくらいかもしれない。

そんくらいにどハマりした。

 

 

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画像はYouTubeのPVより

https://youtu.be/xGbxsiBZGPI

 

 

 

だからリリースからしばらく経ってドコモCMにwherever you areが使われていたときは驚いた。

世界を目指すって高らかに叫んでいたバンドだったから、国内で人気になるっていうのは当たり前のことで、前提条件でしかなかったのだろう。

 

けれど、ワンオクがナオトインティライミを聴いていた人たちのiPhoneやウォークマンのスタメンになるころには、まったく聴かなくなっていた。

 

独占欲だとかそういったものもあった。けれどそれ以上にやっぱり、ファン層が変わったり、大人たちが介入したことで変わった空気感に馴染めなくなった。

ウェーイって笑う人たちとの疎外感から聴き始めたワンオクに疎外感を感じるとは思いもしなかった。誰も悪くない。悪いのはなんか勝手に所属欲求を満たしてた自分だ。多くの人がこのパターンからジレンマに苦しめられていると思う。

 

イモトは安室ちゃんのラストライブに対して、みんなに見てほしいけど、記念で参加する人は来ないでほしい、チケットが当たらなくなる、でもやっぱり権利は平等だし、みんなの安室ちゃんと葛藤していた。

 

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画像はハム速より

http://hamusoku.com/archives/9741621.html

 

後から、とか記念に、とかそういう人との距離感に悩むのは、ファンの恒例行事だ。

 

 

好きなアーティストが人気になることに対して、昨今のSNSではさまざまな意見が飛び交って、昔からファンだったやつらが勝手なマウンティングによる偉ぶりを見せている。

 

気持ちは分からなくもない。僕たち、私たち分かってます。昔からのファンですから、と言いたくなる気持ちはよくわかる。なんなら声を大にして言いたい。

ラバーバンドやステッカーなどアーティストのグッズをつけるのが流行るくらい、アーティストのファンというのはその1員に所属するものなのだ。

そのファンに所属する自分が大切なのだ。これだけは譲れない。だから所属していた母体の空気感が変わると、身の振り方が分からなくなる。

 

 

サカナクションの山口は、このことに嫉妬心の問題だよねとラジオで分析していた。

 

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画像はTOKYOFMより

http://www.tfm.co.jp/lock/sakana/smartphone/index.php?itemid=10006&catid=17

 

 

たしかに、自分だけが知っている秘め事のようなものがなくなっちゃうの嫌だよなと思うも、それだけでは説明しきれない部分もある。

 

久しぶりに再会した友達にもうあの頃とは違うんだなって感じるように、ハマってた楽しい頃の記憶が大衆化したバンドのライブや音源からは見つけ出せないのだ。

 

 

もしかしたら僕らは音楽が好きじゃないのかもしれない。

片思い、失恋、勝負事の前、はしゃぎたいとき、様々な心境を、音楽は彩ってくれる。

AppleMusic spotify Amazon Musicに盛り上がりたいときのプレイリストや、悲しいときのプレイリストなんていう、感情面を押し出したプレイリストがたくさんあることが証明してくれてる。

感情に合わせた曲を選ぶくらいに、構成や音の良し悪しで選曲をしなくなったんだと思う。

 

 

その流れで曲を聴くのに、空気感が変わったことで、聞き手がバンドに入れ込んでいた感情が阻害されてしまう。

入れ込む側が勝手に自滅したといえばそれまでなんだけど、感情で聴くのが音楽ならこれは避けられない。

 

 

言ってしまえば、音楽以外にもこの失われてしまった感はたくさんある。

 

クラスに残って、男2女2くらいで楽しく話していたら後から全員の知人が来て、謎の盛り上がりが消えてしまったり、

サシで遊ぶ気満々でいたら共通の友人が参加してきたとか、膨らませた感情に突然後から来たやつが針を刺していくのだ。

 

YouTubeの広告もそう。お金のかかってないチープなやつが面白くて、広告でも見られてなのに、企業がお金にものを言わせて参入したために、5秒スキップを連打する事態に陥っている。

 

 

和楽器バンドが歌ってるガリバーのCM、とてつもなくうるさいんじゃ。耳に残るからから余計に。歌唱力王とか言うカラオケ大会の番宣で、AIとHYに苦しめられている耳がさらに追い詰められている。キャッチーと苦しみは紙一重になった。

 

 

サイトの広告もそう。もうエログロの王様ゲーム的なやつこっちはお腹いっぱいなんじゃ。

大したオチも中身もないような漫画、宣伝しなくなって、ストレスなく読みたい学生が勝手に読むから。

 

 

いつだってそう。なんだってそう。

後から来たやつらが勝手に空気感を変えて、消費しきって、勝手に去っていくのだ。

郷に入りてはというかなんというか。十分に調査した上で入ってきて欲しいと思うのは、傲慢なのだろうか。

 

 

前だけ見てたいライブでも、動画を見たいYouTubeでも、後ろまで気にして楽しむのは難しい。そんな気を回さないくらいにコンテンツを楽しみたいのだ。

 

 

切り捨て御免で後ろからバッサリやられるのはたまったもんじゃない。

 

 

頼む。

後から入ってくるときは、郷に従ってくれ。傲慢だし、母体となってるバンドやプラットフォームからしたらそんなの関係ないのはわかってる。でもあの疎外感は多くの人が感じて多くの人が葛藤してるんだ。

 

これ以上所属欲求を満たせなくなるのは苦しい。ただそれだけ。

 

 

では、また。

 

 

友をふるいにかけてまで。

 

 

 

新年明けましておめでとうございます。

皆さまは年越しを感じられることをしましたか。僕は年越しそばを食べられなかったことを未だに悔やんでいます。

 

さて、新年のあいさつはほどほどに、また更新を頑張っていきたいと思います。

豊富や2017年の振り返りはまた別の記事で。

 

 

1年1年前重ねるごとに、それが誕生日だろうが、新年だろうが、「節目」というものに直面するたびになんだか全てがリセットされたような気がする。

カレンダーであれば日付は1からやりなおし。ついこないだまで二桁もあったのに。あのやるせなさったらない。積み重ねた12カ月をないがしろにされてる気がする。

 

師走の忙しさにあてられたのか、世の中の流れに感化されたのか、人々は自分の1年を振り返り、まとめなんてものを作ったりする。

有線大賞や紅白なんてのはまさに典型的な例だ。

あんなのあったねって会話が微笑ましかったりする。

 

 

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そんな中で、最近話題になっているのがSNSの身辺整理だ。LINEの友達。ツイッターのフォロー・フォロワー。Facebook、Instagramの関係者。

堰を切ったように、年末になると整理したくなる人や、それを応援するようにたくさんの記事や特集が出回る。

 

ミニマリズムや断捨離を異常なくらい好む日本人らしいといえばらしいのだけれど、整理したいのは、見かけよりも気持ちなんだろうなと思うとなんだか切ない。

ナルトのイタチかと。そう思ってしまう。

繋がりを切ることで強くなる的なね。そんなことないじゃんって当事者じゃないときは思うんだけれども。

 

身辺整理ってのは気持ちの問題によるところが大きく、実質的な利点というのはそうないような気がしてしまう。

多くのものに囲まれてようと、少なかろうと、数の多さに振り回されない人はたくさんいる。目に見えるもの、触れるものにこだわる物質主義的な側面はここ数年でさらに加速しているような気がする。

 

そんなSNS上の整理が流行る中、同年代の友達と飲むたびに思うのが、友達だと思っている人との関係性である。

 

僕よりも年を重ねた人は、顔を真っ赤にしながら、いずれ関係は途絶えてしまうのだから今大切にしとけと言うけれど、時代が変わった今、その金言は通用するのかと、つい勘ぐってしまう。

 

フォロー、フォロワーになれば整理が必要なくらい関係が密接になってしまう世の中なのだ。

年を重ねるごとに、友の選抜が起こることはなんら不思議ではない。

 

会うたびに、生活環境が変わった友が笑い話を発するたびに、なんか違うんだよなと思ってしまったことはないだろうか。

 

そういう口角を上げづらい会話が続くたびに僕らは、その後のやりとりを減らして、関係を希薄にしてしまう。

ARやVRが発達しきる前に、僕らの世の中はSNSを通して認識してするようになってしまった。

それが悪いこととは思えないのだけれども。

 

ボタンひとつで関係を解消できるように、いわゆるリアルの関係性もまた、スクリーン状で管理できるようになってしまった気がする。

 

会うたび、会うたびに友達をふるいにかけて、話がわかる人だけと関係を深めていく。

見たい情報だけを見られるSNSと同じように、僕らは現実で見たいものだけを見るようになってしまっている。

 

SNSの身辺整理が先立って、関係が途切れてしまった昔の友達は今見ている現実を変えたのだろうか。

 

そんなことで悩んでるのかよ、とか、そんな理由で別れたのかよ、とか、いつからか価値観が変わってしまったあの頃の友達は、今も共通のの誰かと「繋がって」いるのだろうか。

 

なんか違うのは僕だったのかもしれない。と、結婚式誰呼ぶ?なんて話しで盛り上がるグループの中でふと思う。

身を軽くすることにばかり注目しすぎて、心を楽にすることばかりに注視しすぎて、ネット上で連絡を取らなかったら、もう関係は破綻したという現代の価値観にとらわれすぎて、確実にあった楽しい時間までもなかったことにしてしまったような気がする。

 

今は違くても、当時は本当に楽しかったはずなのに。生活環境なのか、金銭含む物欲や、物質主義がそうさせたのか。

戻れない日を思うと同時に、関係の切れてしまった友の笑顔を思い出す。

 

なんか違うと、もういいやの境界がわからなくなってしまった。

SNS疲れが言われて久しいが、希薄になってしまう関係を保ってくれるのもSNSなのだ。

ニーチェの深淵を覗く状態になっている。

 

友達をふるいにかけて、そりゃ残った人たちはもちろん大切なんだけれど、落ちていく粉の少なさに、自分で自分の交友関係を狭めたんじゃないかと後悔が出てくる。勝手にSNSなんかに疲れなければよかった。

 

向こうが今も僕のことを覚えていると、そういう前提がすでに、触れられる存在を重視する物質主義に傾倒している証なのかもしれないけれど。

 

世代が変わった今、僕らは人生の関門を待つことなく、交友関係を自ら決めてしまえる。

ほんとうに大切なのは数字じゃないなんて価値観が確立されて数年経つけれど、今もまだ気軽に連絡をとれる人の数というのも貴重なのかもしれない。

 

僕らはふるいを振りすぎた。

 

では、また。

 

 

ミサイルに壊してくれと願うには。

 

 私の住んでいる街はJアラートが鳴らなかったから、ミサイルが太平洋に着弾したことを知ったのは、夏休みボケした体がどうにか午前ギリギリに目を覚ましてくれた時だった。

 

大人たちが盛り上がるのは第一報だから、私が起きたときはもう、テレ東がケモフレ最終回を強制的に放送したこととか、堀江氏が「こんくらいのこで朝起こすなよ」とJアラートに文句を言っているだとか、そんなニュースの残りカスみたいなところをメディアが大事そうに扱っている時間帯だった。

 

「カスはカスでも金や話題になりそうなら大切にしてくれるんだな」と、少し光が差し込んだ気がしたところで胸のあたりがズンと重くなった。

恐怖と慄きが同時に背中から襲いかかってきて、家族が家を出るときにクーラーを消したせいで蒸し暑くなった部屋の中、思いきり布団を被った。

 

 「行きたくない」その一言を言ったところで、夏休みが明けて色めき立つあの白い校舎に登校せず済むとは思えないからか、同い年であるにもかかわらず、自分が数の強者に屈した、弱者だと認めることに一抹の気恥ずかしさがあるからか、はたまたSOSを出しても受信すらしてくれない、スマホゲームに課金することが生き甲斐の、現代代表の肩書きを背負った担任に嫌気がさしたからか、誰にも言えないこの痛みは胸の中で定期的に暴れ出す。

 

嘔吐感のようではあるが決して吐くことはできないこれ。胸のあたりに思いきり指を突き立てられているみたいだ。

振り払うことなんてできるはずがない。いじめられっ子の肩書きを学生社会からかけられた私は一体どうすればいいのか。

 

 布団の中は息苦しかったけれど、出ることはせずに、スマホでニュースサイトを見ることにした。昼に起きたというのにブルーライトが目に痛かった。

使う用がないのが悲しくて、買ってもらった時の嬉しさを思い出して、フィルタリングがかかっていないスマホの使い道を探していたら、ニュースチェックが日課になっていた。自殺のニュースがあるとドキッとするけれど毎日見てしまう。お母さんからご飯の内容が送られてきていたけれど、無視してサイトを開いた。いじめで死んだ子はいないみたいだった。みんなミサイルに期待したのかな。

 

今日の一面は、いつものように北朝鮮のミサイル発射に対して各所が出した声明を掲載しているだけで、『アメリカが北朝鮮本土を攻撃』みたいなニュースは一つもなかった。ちょっとがっかりだ。

 

スクロールしていくと、山で遭難した女性が、保護してくれた警察官を批判し燃えているブログがあるという記事を見つけた。

保護してくれた相手に文句を言えるなんて素晴らしい身分なんだなと思った。なんて肩書きがあればそんな言葉を述べられるようになるのだろう。『大人』であれば可能なのだろうか。

だとしたら私はまだ自分の悲劇に酔って死ぬことはできない。やり返してやるとは思わないけれど。でも、いつか批判くらいしてやりたい。「おまわりさん見て!この人達が人の上に立ちたがる人なの」と。

 

実際そこまではできなかったとしても、いつか、いつか、あの子達が私より不幸になってくれないかと思ってしまう。先生に怒られるとか、両親に叩かれるとか、そういうことでいいのだ。それでいいのだ。それでいいから。

 

 ブログを書いた女性は、警察の態度に腹を立てているみたいだった。助けを求めた人に高圧的すぎではないのかと。そう主張していた。けれど、山にコンパスや地図を持たないで入るほうが悪いと言われていた。

 

持ち物を準備して望めば、滞りなく終わるのに、なぜあの女の人はそんな簡単なものすら準備しなかったのだろう。理科の授業で使ったコンパスも社会科の授業で使った地図も、まだ捨ててなかったら私のこの苦しさも滞りなく終わってくれたに違いない。

 

いや、この遭難した女性のように、コンパスを持たない私だからこそ、もしかしたら保護してもらえるのかもしれない。行きたくない学校から。下を向いて座り続ける教室から。

 

けれど、それが家族の心配や私自身への嘲笑の視線を生むと思うと、保護されることが最善の策ではないような気がしてくる。

 

 人に見られたくない。他の学校の同じ肩書きの子はどう思っているのだろう。見て欲しくない人が誰なのかはいまいち分からないけど、恥ずかしさは何よりも先に立っていた。

 

だけど、校舎から飛ぶ子の気持ちはすごくよくわかる。見られたくないけど、見せつけてやりたいという気持ちはある。あの子達の青ざめた顔を見られないのは悔しいけれど。

 

 そもそもだ、クラスのリーダー的な男子と仲がいいからってあの子達の肩書きが上の上になるわけじゃないのに。威張って、自分の肩書きを守るために共通の敵を作り出して、ダサいことこの上ない。

ずっしりと重い心の中ではなんとでも言えるけれど、口から出てくるのは曖昧な笑みだけで、情けなさをこらえる自分が恥ずかしい。涙が目に浮かんでいないか。そればかり気にしてしまう。泣いたら負け。なんてことはないけれど、あの子達の前で、匿名を決め込んだあの人達の前で、泣きたくはなかった。並行してお母さんの顔は思い出さないようにしていた。思い出したら絶対に泣いてしまうから。

そうすると、泣かないことが一種の強さであるような気がしてくるし、泣いてない自分はまだやれるような気がしてくる。

サイトに上がっていたコラムによれば、いじめが苦しかったら無理せずに周りに頼るのがいいらしい。そんなことは分かってる。学校の集会では相談員を名乗る優しそうなお姉さんが、「なんでも言ってね」と熱弁振るっていた。

 

優しそう。というのも考えもので、その相談員の人は声の大きい生徒に人気になって、とてもじゃないけれど、私が近づけるような状況ではなかった。

きっとあのお姉さんだって宿題が難しいとか、クラスのあの子の態度がおかしいとか、プールを休むのが恥ずかしいとかそんな話を聞いてるほうがいいんだ。だって、そうでしょう? 掃除も給食当番も、日直も委員会も、楽な仕事のほうがいいじゃない。近所のお兄さんは彼女の「なんでも力になるよ」がうざったいって言ってたよ。「自分すらまともに運営できないのに他の人を救えるのかよ」って。

 

 学校生活は大人達の社会の縮図だから。大人が思ってる以上に子どもはいろんなことに敏感だし、いろんなことを見ている。会社を簡単には休めないように、私たちだって簡単には休めないのだ。

体が大きくて、歳を重ねたせいか、それだけのことで?と問題を一蹴してしまう大人は多いけれど、直面した問題は常に当人にとっては最も重要で最も大切はものでしょう? 私からすれば、昇給しないとか、ボーナスが低いとか、福利厚生が悪いとか、彼女の誕生日プレゼントを決められないとか、そんなことよりも9月1日のほうが問題なわけ。

 

1カ月半の休みで、何事もなかったように学校生活が始まらないかと、この夏休み中毎日思い続けてきた。あの子達がなんで私をいじめていたのか忘れて、他のことに夢中になりますようにと。

 

 9月1日がもうすぐやってくる。頼んでないのに勝ってにやってきては、もう学校ですと。逃げ場はないんですと通告してくる。学校なんてなくなってしまえばいいのに。

休みが続いて欲しいから、夏休みの宿題が終わってないから、こう願っている子だっているはずだ。数が集まることが強いなら、この願いは強いはずなんだから叶ってほしい。

開発地に出来た新興住宅地からは流星なんて見えないから、寝ている間に日本列島の遥か上を通過していったミサイルに祈ってみる。

 

「学校に落ちてくれないか」「いや、私の家以外を燃やしてくれないか。」「あいつらの家だけを燃やしてくれないか。」「私がもう苦しまないで済むようにしてくれないか」

 

頭上すれすれをかすめていくだけで、願いごとは叶いそうになかった。

 

  3学期制の2学期は長い。私からはこういうわけで無理だから、誰かが勝ってに気づいて勝ってになんとかして勝ってに私を救ってくれないかなと思ってしまう。

 

NPOが注意喚起を積極的にしてるみたいだから、それで周りの大人が変わったらいいのにな。

 

そうだ、私はまだ死なないで、そういう人助けをしよう。そう決めて毎日頑張ったら私は私を救えるような気がする。

 

そうしよう。そうだ。そうなったらいいな。