ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

ウンチクを語っても嫌わないで。

 

ちょっと前まで、テレビ番組が19時56分から放送!とか、やけに半端な時間から始まることを、前面に押し出してた時期があったじゃないですか。

あれ、他の局の番組が20時丁度から始まる中、抜け駆けすることで視聴率を上げようとする作戦だったらしいんですよ。当初は。今ではもう、どこの局も前のめりの時間から放送するから逆に56分スタートが当たり前になって効果はないみたいなんだけれど。

 

大したことではなくても、知ると思わずなるほどと言いたくなる。世の中、何事も理にかなってるんだなと改めて実感せざるを得ない。

 

色んな雑学・ウンチク・ライフハックネタを知ると毎回気になるのがあれ。「バナナはおやつに入りますか」の元ネタ。あれはなんでこの世に生を受けたのか未だにこれ!という説に出会えていない。

 

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サジェストで圧巻の1番を獲得している。

 

他にも、口広げて「学級文庫」って言ってみ。とか「ねーちゃんと風呂入ってる?」とか、ジャンケンの全部の手を賄ったあの手とか。あと何分何秒地球が何回回った時?とか。手二回叩いてバリアとかかめはめ波みたいなのやるやつとか。定規ペンで弾くやつとか。

ネットなんて今ほど発達してないから、バズって拡散なんて概念がない。小学生ながらに狭いと感じていたコミュニティ内のネタなのに、差異はあれどこれらは全国で定番のネタになっている。小・中学生になると誰かが言い出すように遺伝子に刻み込まれているのか。

 

『森のクマさん』もそうだ。替え歌の歌詞に違いはあるけれど、なんで全国の小学生はみんな『森のクマさん』にこだわって歌詞を変えるのか。他にも童謡なんて山ほどあるのに。

隣町の誰々が。みたいなのもなく、本当に学区内だけで成り立つ生活の中、ある意味鎖国しているのとなんら変わらない生活の中、異文化はどこから生まれたのか。もしくはどこから入ってきたのか。謎でしかない。

 

全世界でみても、似たような童話や神話、話しのプロットは各地に点在している。発想が細胞からくるものだとしたらちょっと怖い。名案があらかじめ定められているなら、生まれながらに財を成せる人間が決まっているし、いくら頭をひねっても思いつかないってことは絶対に閃かないことを証明してしまう。

 

 みんな知っているのに根幹が分からない。「バナナはおやつ」は詳細不明で神話みたいになっている。

 

ここからの話はバナナの元ネタに対する想像でしかないんだけど、今ほどお菓子が市場になかった時代、おやつで食べられていたバナナの区分が、フルーツなのかお菓子なのかを確認したところが始まりなのかなと思う。お菓子は高価だけど、毎日のおやつバナナなら持っていけるみたいな背景が多分あって。

 

いるじゃないですか。クラスに1人はなんでも質問するやつ。そんくらい分かるだろってことでも質問する準備に余念がない方々。銀行の窓口がいつでも混んでるのを見ると、小学生も老人もなにも変わらないんだなって思う。

 

このなんでも質問魔も全国共通の人種として扱えますよね。宿題やってきてない人の方が多い中、運良く先生も忘れてたのに、わざわざ宿題集めないんですか?とかぬかす奴。男女関係が微妙な年頃のクラスであっても、その瞬間だけはいや、なんで!とシンクロできているに違いない。

この話題あげると、どこ出身でもいたいた!ってなるからやっぱり共通なんだなと。

 

 解き明かされていない謎はインカ帝国以外にも雑学として身近にいっぱいある。死ぬまでになんとか元ネタを見てやりたい。HUNTER×HUNTERの完結を待つのと、エヴァの新劇を待つのよりかは簡単なはずだ。

 

では、また。

 

人の笑顔がみたいのか。

 

 いいことをすると、巡り巡って自分にいいことが起きるという、日本人ならではの価値観。どれくらいそれに身を委ねるべきなのか時折わからなくなる。

 

利他主義を掲げて、募金やボランティア活動、人の笑顔をみるための活動に尽力すると幸福指数は高くなるのか。価値観通りに、いいことは自分の身に多く訪れるのか。それはいいことをしていたからという認識が先立っていたからではないのか。当人にならなければ分からないから、一概にこうと言い切れない。けれど、人の笑顔のために動くと悪い気がすることはない。それは、電車の席を譲るという些細なことであっても。

 

善行ひとつにこんなに想いを巡らせてしまうのには、理由がある。

 

誰だってそうだと思うが、いいことを人にした時と同じくらい、何かを独り占めするといい気持ちになれる。僕はこの独り占めが好きで好きでしょうがない。見事にヴィランズの基本理念を満たせている。正義の味方より圧倒的に悪役向き。気がついたら性善説を肯定できなくなっている。

 

シェアハッピー?

なにバカなこと言ってんだと思わずにはいられない。

ポッキーを例に出せば、みんなで分け合って食べるより、1人で1箱食べたほうが個人的には幸福指数が高い。まず、食べる本数が減らないから圧倒的に満足できる。また、子どもの頃に抱いていた「お菓子独り占め」というなんとも安直な欲望を満たせていることに、笑みを浮かべてしまう。

 

シェアをすることで、他の人も美味しさで笑顔になれたら、確かにそこに新しい幸福が生まれる。自分が食べた「幸せ」と他の人の笑顔での「幸せ」。種類は違えど、1粒で2度美味しい状況になる。なるけども。なるんだけども。いや、なるけども、本数を食べることに感じる幸福度が減ってる以上、独り占めもシェアも、最終的な数値は変わらないんだと思ってる。

 

どうだろう。1人で食べる気満々で買ったポッキーを各所で頂戴とねだられたら切ない気持ちになるんじゃないか。やっぱりみんなたまらなく独り占めが好きなんですよ。

 

簡単にできる贅沢じゃないですか。

手に入らないものと、持ってるものを比べて勝手に満たされなくなってる僕らが、簡単にできる自分の満たし方じゃないですか。独り占めって。

 

分け合うこと。循環させること。もちろんこれらは大事だと思いますよ。けれど、なんでもかんでもみんな、分け合ってたら、手元にある幾ばくかの残りに悲しさを覚えるときがあると思うんですよ。あの時こうしていれば、あの日に戻れれば、って大体何かを手放したときじゃないですか?

 

所属する環境をふまえながらも、もっと素直に独り占めできるようになったら、もっと満たされるようになるんじゃないかと思うんですよね。

 

 

僕がまだプリキュアだったころ、日朝には『ハピネスチャージプリキュア』が全国のプリキュア達に元気を与えていた。

 

僕はこの作品のホッシーワがとても好きだ。ひめも好きなんだけど、ホッシーワは悪役なのに愛嬌があるから1歩リードしてる。

 

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  ホッシーワ | 幻影帝国 | キャラクター | ハピネスチャージプリキュア!

 可愛い。悪役感が滲み出てる。

 

話を本筋に戻そう。

このホッシーワは独占欲を絵に描いたようなキャラクターで、「ケーキはホールが1個なの」と発言するなど、シェアとは無縁のキャラクターとして描かれている。

 

その中で、「痛みも苦しみも誰も一緒に味わってくれない、だったら喜びだって独り占めしたっていいじゃない」という台詞を散り際に残している。日朝の幼児向けの作品とは思えない深み。

 

最終的にはプリキュアシリーズの流れに逆らえず、主人公一味に負けてしまうんだけど、この考え方は結局否定できないと思うんですよね。何か特定のものに執着して、それを独占したくなるのは、人間ならではじゃないですか。分かち合うことでできることと、独占してできることは独立してていいはずなんですよ。

 

だから僕はどっちのいいところも独り占めしていたい。自分のお菓子は自分で食べる。シェアするならするで、その人との喜びは独り占めしていたい。

 

人を笑顔にできるなら、お菓子はシェアするし、疲れてたって老人に席は譲る。けど、それで生じる笑顔は独り占めしたい。シェアなんてまっぴらごめんだ。僕が生み出した喜びは僕だけのものにしたいんだ。そうした喜びが手元に残るなら、たらればの後悔はなくなるに違いない。

 

 

では、また。

miwaと土屋太鳳を足し算。

 

昨今のラブコメ映画は、とりあえずのキャスティングで乗り切りすぎだと思う。毎回毎回似たような顔ぶれ過ぎて、全部同じに見える。いや、話の本筋もだいたい一緒なんだけどさ。ちょっと前に公開された映画を再上映しても気づかれなさそう。

 

こき下ろすことになるから、ラブコメ映画やそれによく出演する演者が好きな方は見ない方がいいかもしれないです。

 

で、思うのが、ラブコメ映画に多く出演している演者は薄っぺらいなということ。時間が有限である以上、俳優・女優が出演できる作品やCMには限りがある。その中であえてラブコメに多く出るということは、それだけ模擬恋愛に時間を割くというこになる。

 

演技する以上、台本の読み込みや、役の立場や心情を推察するということは必要不可欠だ。こればっかりはシェイクスピア演劇の頃から何も変わらない。役をやるなら自分ではなく、他の誰かになるしかない。

 

ということは、ラブコメ映画の常連俳優・女優は、恋愛に奔走するキャラの立場になり、必死に当事者にとっての片思いや、恋とは何かを考えているということになる。マックに集うJKとなにも変わらない。いい意味で言えば、そういった人たちは何歳になっても若々しい。

 

けれど、だ。やっぱり映画に貴賎はないというのを大前提にしても、『硫黄島からの手紙』や『ピンポン』『おくりびと』みたいな登場人物の心情を、仕草と台詞からも読み解ける余地があるような作品と比較すると、やっぱり話の系統的に薄っぺらい。だから演じるにあたっても推察する幅も広くなく、大した演技力も必要ない。

 

ドヤ顔で見所シーンは素早い壁ドンです。と言われても。キュンキュンするにはいいんだろうけど、「演じきった」みたいな感を出されても困る。見る側の評価基準は「迫真さ」より、「早さ」でいいのだろうか。

 

好き→悩む→解決してハッピーエンド。という基本的な流れから離れられない以上これは致し方ないことではある。けど、これに好んで出演しているとなると、底が知れる。

 

ラブコメ映画は演技よりも恋愛に重きを置いている演者たちの代表作になるはずもなく、名作として後世に語り継がれるような作品になることもない。

 

そんな作品を好み、演技しているのだ。実在すらしない恋愛ばかりに想いを巡らせる出演者は演者として薄っぺらい。それどころか、普段から恋愛のことだけを意識するわけだから、人間的にも大したことなさそうな気がしてくる。

 

限りある時間をラブアンドコメディに割いているのだからローリスクローリターンだ。映画が大爆死することはなくても、大ヒットすることもない。人間的にもローリスクローリターン。社会に揉まれての成長が大してない。

 

なにが言いたいって告知やプレスリリース情報で土屋太鳳見るのに飽きてきたということです。

 

では、また。