ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

認められる努力とは。

 

ビジネス書を開けば、PDCA

ハウツー本でもPDCA

なんやかんやでPDCA

北のミサイルはPPPC?

 

目的を達成するためのサイクルで、実践している人も多いと思う。単語は知らなくても目標を立ててそれに向かって走って、途中で方向を修正して、また走り出すと聞けばやってるやってると声があがると思う。

最近かっこいい横文字になったけど、昔から目的に到達するための方法として言われてきたことだ。

  

走り出す方向や、走った先にあるものが明確な時は意外と人生なんとかなるなって思うことが多い。

努力できるっていうのは、ある意味で楽なことだと思う。報われる報われないは別にして。

 

目的を達成するために、必要なのが待機だったらどうだろう。動きたくても動けない。この状況の方がただひたむきに走ればいい時よりもしんどいと思う。

もっと練習したいのに休むことが練習になった時。まだみんなで飲んでたいのに次の日朝早くて帰らないといけない時。気になるあの子と連絡を取り合ってたいのに、押して引くの引くになった時。

結果的に見れば全体としていい方向に動くのかもしれないけど、何もしないという行為に不安になる自分が顔を出す。

何もしないことが努力だと言われてもいまいち納得できないのは、僕らが小さい時から知っている美談に洗脳されているからではないだろうか。

 

自伝や伝記、レビューで「ひたむきな姿に私も元気をもらいました」って書かれる小説は、起承転結とPDCAがくっついて話が進む。目的を見つけて、目標をクリアし、挫折して、成功を勝ち取る。

常に動き続けるタイプの努力以外目にすることはない作品から僕らが学ぶ努力は、やみくもではないけれど、常に動くタイプの頑張り方だ。この努力を僕らは小さい頃か努力として教わるから、頑張ることが美徳になる。

 

だから好きなことをやってほしい、やりたいことをやってほしい、は無責任な言葉だと思う

好きなことだけを、やりたいことだけをやっていいのなら美徳がある常に動く努力ができる。

PDCAのP,Cに入った時、目的達成のために動かないことが最良だと考えた時、僕らは好きでなくたって歩みを止めなければならないことがある。

 

今やりたくてもできないことは山ほどある。押して、押して、押して、だけじゃ進まないことがたくさんある。だから好きなことをやっていいならそれを押し続ける。押し続ける努力は自分を、努力してるという気持ちにさせてくれる。非常に心地いい感情を抱ける。最中に頑張っているという美談もできるだろう。

でもそれだけじゃいつまでたっても変わらない。目的を達成して、過去に意味づけをして、あの時を乗り越えられたのは、と結果論を噛みしめるためには努力しない努力も必要なのだ。

 

ところが水を飲まないで走り続けたほうが強くなると思われた旧時代の部活よろしく、今でも美談びなるのは走り続けた努力だけだ。休む努力はサボりとみなされてるのかってくらい話に上がらない。

 

じっと見をひそめる努力も見を結ぶ1つの大事な要素なのだから、美談になっていいと思う。むしろ然るべきだ。

常に頑張ることだけが美談ではない。そう思う。

 

だから、よく耐え忍んだ。

そういう認め方をしていきたいと思った。