ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

踏切事故もテロ行為も美談にしなくていいんじゃない。

 

フランスのシャンゼリゼ通りで警察官を標的にした銃撃事件がありました。

ISが犯行声明を出していて、またテロが仏国内で起きたことになります。

 

各国がテロに対して屈しないという声明を出し、荒れるに荒れそうな大統領選を控えた時期での今回のテロは、テロ対策が焦点となっているこの状況をより加速させそうです。

 

ここまでが見た感じのニュースの流れ。

「シリアで局地戦 5人が死亡」っていう見出しに慣れたように、「国外でテロ ISが声明」なんていう見出しにも慣れてしまったのか、以前ほど騒がれなくなってきたなという印象を受けた。

平和ボケしてるという見方もできるが、単純な出来事の結果に対して問題意識を作り出すのは難しいし、もっと危機感を持つべきとは言い切れない。もちろん持つに越したことはないんだけれど。

ただ、テロが起きたから日本もヤバイと、とりあえず騒ぐ方が如何なものかと思う。狼少年の声を聞いていざってときなのに動かない住民にならないようには気をつけたい。

 

見ず知らずの人を巻き込むなよってテロが起きるたびに思うんですけど、実行犯は自爆しようが逮捕されようが自身の行為を同胞のためだと信じて疑わないわけだから恐ろしい。

会話の次元が最初から違うというか、座標軸が違う。最初から混じり合えそうない。

生活に根付いた宗教や歴史が背景にあるから、テロを容認するわけではないれけど、会話が噛み合わないことに対し仕方がない部分はあると思う。

 

ただ、同胞のために身を投げることを厭わない彼らに、美談が持つ危うさが見える。

仲間内という表現が正しいかは分からないけど、IS内ではあいつは同胞のためによくやったと言われてるわけで、死後の評価が約束されてるっていう安心感が存在している。

「なんのために生まれてきたのか」に対する答えがはっきりと提示されていたら、生を手放す怖さは軽減されるんじゃないんだろうか。

自爆しても、逮捕されても、赤の他人を殺しても、人生に意味を見出して終わることができる。同胞のためにやってやったぞ。と。

仲間内で、自分の周囲の環境で、自分の人生がいい人生だったと美談になるからテロを起こすことを恐れない。

これが僕の思う危うさである。

 

この危うさは思考停止を促す。

ISの人たちはテロ行為を恐れなくなっている。死に意味を見出すのは周囲の価値観ではないはずだ。

 

これと同様に日本でも美談による思考停止が問題だ。

 

ついこないだの、京浜急行の踏切で男性2人が亡くなった事故。

救出しようとした男性は正義感が強くいい人だったと報道されている。

もちろんそういった方が亡くなったことに対し悼む気持ちは大切である。いい人だったのに亡くなられるなんて、と悲しむべきだと思う。

 

けど、これ美談にすることで思考停止を生んでませんか?

 

踏切に人が立ち入ったなら、自分が飛び込む前にまず緊急停止ボタンを押す。これが普通の対応だと思う。

身を呈することが正義感の強さに直結するわけではない。人命を救助するためには適切な行動をとることが一番大切だと思う。

久保ミツロウの『トッキュー』のように無茶な体の張り方をして人を救えるのはフィクションだからだ。救助する側の命も大切にされなくてはならない。

 

もちろん見殺しにせず電車が迫る踏切に飛び込んだ男性が悪いと言いたいわけじゃない。僕なら怖くて飛び込めない。勇気を持った行動には敬意を払いたい。

そうではなくて、人を救うためにはまず緊急停止ボタンを押すという報道をするべきではないのか。

正義感が強かったのにと、事故と死を感想つけやすい美談で終わらせることは今後の再発防止を妨げることになる。

 

悼む人の声を取り上げるのは大事だが、そこで報道を止めるのはあぁ悲惨な事故だったねと思考停止を生むだけだ。

 

美談にしたらなんでも上手くまとまるわけじゃない。

そこから学んで僕らは初めて歴史の上を生きていくことができる。

美談の持つ危うさを意識しながら、取り残された現代を生きたいものである。