ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

『フランケンシュタインの恋』に思う原作モチーフの必要性。

 

 『フランケンシュタインの恋』のCMがなぜか頭で繰り返し再生される。

さすがは野田洋次郎のセンスといったところでしょうか。

僕は人間じゃないと歌えるのは、古今東西どこの野田さんを探してもRADのギタボである彼くらいなもんだ。

 

【公式】日曜ドラマ「フランケンシュタインの恋」4月23日よる10時スタート!100年以上もの間、人間から身を潜め、孤独に生きてきた怪物が、人間に恋をする。歳の差100歳のラブストーリー。 - YouTube

 

 

 

 この作品はどうやらフランケンシュタインの名を冠するように、フランケンシュタイン氏が創り出した名のない怪物が人間に恋に落ちる作品らしい。まんまだ。なんとなく結末まで見える。絶対アイデンティティーに関する葛藤抱くシーンあるよ。人間じゃないのにとか、死なないのに、とか。

なかったら恥ずかしい。

 

より詳しいあらすじは以下からどうぞ。

http://www.ntv.co.jp/frankenstein_koi/introduction/index.html

−日テレ公式サイト

 

 

 フランケンシュタインは生みの親の名前で怪物じゃないってのはよく知られた話だけど、この作品はとりあえずそこらへんの設定はちゃんと踏襲してる。英文学や劇を研究してる身としてはこの作品の取り込み方がしっかりしてるとムズムズしないですむ。

間違ってたら間違ってたでいいし、そのことを主張するつもりもないんだけど、精神衛生上ね。

好きなマイナーバンドの後ろ向きな歌をサッカー部に大声で歌われたら嫌でしょう。ちゃんと分かってる?それってなるじゃん。でも説明とか絶対しないじゃん。そんな感じ。

 

 で、今回のこの記事では、この『フランケンシュタイン』を踏まえ、ベースにした作品が存在するにも関わらず、都合のいいように改訳して要素を取り込んでしまうという、近年の実写映画にも見られるような、テクストの再翻訳が抱える問題ついて考えていきたい。

ジョジョの実写化とか、銀魂の実写化とかみんな不安に思ってるわけで、それは作品解釈の違いからストーリーとかテクストの内容が変わっちゃうことに、少なからず原因があると思うんだよね。

 

 なんで話を都合よく変えるんだよ、とか再現度に限界があるとか不満持たずに入られたら大して原作が好きじゃない人たちが盛り上がっててもモヤモヤしないですむと思う。

 

 シェイクスピアの劇とテクストの関係性がよく表してるように、原文ないし原作が存在する作品は、必ず上演するにあたって作品が組み替えられる。シェイクスピアは本人が書いた作品は役者にセリフしか見せなかったために正確な台本が存在していない。研究所が読んでいるものも、新潮文庫とかから出てるものも全て、役者たちの記憶やメモを頼りに作られたつぎはぎだらけの作品なのだ。これは他の劇団に作品が盗まれ改訳されるのを恐れたためだとされている。古来より、原作者は作品の姿が変わることを恐れている。まさに歴史は繰り返すだ。

 

 しかしながら、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』や蜷川幸雄、ローレンスオリヴィエの『ハムレット』などHamletが原作の作品は現代にも多く存在している。

つぎはぎのテクストをさらに再訳し、演じられたこれらの作品はいわゆる原作レイプというものに当てはまるのか。

肯定する意見もあるだろうが、これら全ては、原作をないがしろにした作品ではないと僕は思う。

監督が描きたい、もしくは焦点を当てたい作品内のテーマを的確に提示できるよう、原作をよく取り込んでいるいい例だと思う。ある意味、研究論文と同じで、切り口を変えた原作の見方を提示してると捉えられる。いい方向に作品を取り込んでいるこの例は、突飛な解釈をせず、書かれていることを忠実に読み解いていることを表していると考えてもいい。

 

 どんな作品でも、出た当時の歴史的背景や民族の特徴、風刺などは必ず反映されているから、それらに作品を読むことは当時を理解することにつながる。現代にそのスタイルが合わなくなった時、作品の形を時代に合わせることは必要なことだと思う。黒澤明の作品がいい例だと思う。

けれど、そういった原作のコンテクストや背景を意識せずやみくもに都合のいい場面を拾ってつなぎ合わせることは、原作者に失礼であり、原作レイプと言われても仕方がない。

経済のために作られた、原作者が描きたかった主題を汲み取れていない作品は価値がない。

だれの価値観も投影されていない作品から受け取るものなど何もない。

 

 これこそ『フランケンシュタイン』がいい例だと思う。いちゃもんをつけているように思われるかもしれないが、文学史的に言えばこの作品はゴシック小説で、ベースは怪奇譚。ストーリーの進行は書簡の体裁をもっている。一応SF作品とみなされることもある。と、このいわゆる文学史的意義は、今日のフランケンシュタインという名詞に、みじんこほども含まれていない。

フランケンシュタインといえば『怪物くん』のフランケン、スリムクラブフランチェンのような姿を思い浮かべて終わりだろう。

 

 生命の創作や葛藤、愛や親と子の関係性などこの作品を作品たらしめる要素は、原作レイプが進むたび、あの特徴的な見た目に取っても変わられた。あんなんもう名を借りただけの創作作品である。ただ、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国』はフランケンシュタインを元ネタとして扱うのがうまかった。特に伴侶に関してうまく話の鍵に落とし込めていたと思う。

 

 原作をないがしろにし、ただ分かりやすく、観客・視聴者の気を引けるように作り直された『フランケンシュタイン』は、現代の実写映画問題に通ずるものがある。

名を借りただけで、原作の主題を取り込めていない作品は品位を落とすだけでなく、間違った解釈を生みかねない。話題を作るたに、CMを派手にするために、作品を再編集するのはやめていただきたい。それただの2次創作作品である。なんで金払って他人の脳内補正を見なくちゃならんのだ。

原作をもった映画や劇の価値は、再翻訳するなかで新しい切り口をもった現代作品になるという点だと僕は思うのだ。

 

 こんな風にフランケンシュタインは、もう名前だけでああ、名前を借りただけねと捉えられるリスクがある。そんな中、あえてフランケンシュタインを前面に押し出してきた『フランケンシュタインの恋」

 伴侶を願った、あの名のない怪物なのか。全く別の怪物なのか。綾野剛演じるフランケンシュタインの設定もよくわからないが、せっかく問題の名前を借りているのだから、ふわっとした緩い結末 ー考えさせられる作品でした。くらいしか感想を抱けない結末ー ではなくAIの発展が目覚ましい、現代に合わせた「フランケンシュタインコンプレックス」を扱った作品になってほしい。

まあただの願望だからならなくても別に文句はない。

 

ただ、原作をあえて使った作品の必要性が見て取れないままでは、映画もドラマも演劇も衰退していってしまう。だれも創作作品を見なくなることで、過去の素晴らしい作品達は時代に埋もれていってしまう。

だから、再翻訳したことの意義を、どの作品も押し出して欲しいものである。

 

では、また。