ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

「東北でよかった」が被災地以外の意見なわけがない。

 

https://www.google.co.jp/amp/www.sankei.com/politics/amp/170426/plt1704260067-a.html

-産経ニュース

 

今村氏の「東北でよかった」という発言が物議をかもし、復興相を更迭された。

 

それを受けて上の記事は被災しなかった人の意見ではないかと考えているようだ。

 

確かに記事の筆者が言うように、この失言はただの政治家の失言で終わらせてはいけない。

しかし被災しなかった人たちまでもが、そう思っていると考えるのは違うんじゃないかと僕は思う。そういった人がいないとは思わないが。

 

震災後すぐの状況を見ると、エガちゃんは東北にトラックを走らせたり、現地に出向いてボランティアをする幅広い年齢の人たちが出てきたり、逆に被災地に行けない人は募金をしたり、計画的な停電の中を過ごしたりと、何か自分たちにできることはないかと意識を持ち始めた。

 

確かに意識をもったからいいだなんてことはなく、停電なんて被災地のものよりは短い時間だし、水が止まったわけでもない。けれどできることをやるしかなかった状況を比較してはただの不幸比べになるんじゃないだろうか。

別に僕らはできることをやったんだからいいじゃないかと言いたいわけではない。結果として、できることしかできない無力さに歯がゆさを感じるだけにとどまったり、震災後も生活が変わることなく続いたことは事実だ。

 

ただ、世間体の中に意識があるような、僕はちゃんと考えていますよってことを他の人に見せたいだけの発言をするような、だらっとした生活が続くことに感じた後ろめたさを払拭したいがための発言をしている人たちだけが震災後溢れかえったわけではないのだ。毎年3月11日が来るたびに、見せかけではなく、痛みを実際に感じてる人は場所関係なくいる。

 

そんな人たちが、東北でよかったなんてことを思うわけがない。善意からくる行動を懐疑的に見てしまう風潮は人の悪意だけを跋扈させると思う。

 

 

どこかで殺人事件が起きた時、被害者があなたでなくてよかったと思うことは浅ましいのだろうか。

どこかで人が殺された時、それが自分じゃなくてよかったと思うことはおぞましいことだろうか。

 

主観でしかないが、誰もがこの感覚を持つと思う。自分の生活は変わらなくてよかった。悲しまなくてよかった。苦しまなくてよかった。

この感情は不謹慎だろうか。

 

もちろん痛ましい事件に関して言えば、憤りを感じるし、やりきれない、と思う。

けど誰だって維持したい範囲しか維持できないなら、守りたいのは自分をとりまく環境だけだ。

そういった意味で見れば被災地が自分の街じゃなくてよかったと言っているように捉えられるのかもしれない。

 

首都圏が被災したら、東北の人たちは同じ苦しみを味わってくれてよかったと思うだろうか。

「だろう」ばかりで推察の域をでないのが歯がゆいが、そうじゃない人たちは一定数いて、そういった人たちはまた復興に向けたポジティブな波を作る。

 

「東北でよかった」「その意見は被災地以外全体の意見だ」といった解釈は、人が本来備える道徳性や善意から起こした行動を無視するものだと僕は思う。

 

30年以内に大地震が来る地図が発表された今日だからなおのこと、痛みや苦しみから善意を見逃すべきではないと考える。

隠された悪を注意深く拒むこと。それがこれからやってくる順番に怯えながらも、たまたま被災しなかった僕らが継続してできることではないだろうか。

 

痛みを受けるまでわからないほど僕らは人の痛みに愚鈍ではない。

 

 

では、また。