ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

求めたものに追いすがって

 

ブラック企業に努めてるとかそういうわけではないけれど、4月は丸一日休みという日が存在しなかった。

 

ようやく今日、夢にまで見た休みだったのだけれど、手に入ってしまえばこんなもんかとなんだか寂しい気持ちになった。

 

休みに入る一週間前くらいは、どんなに肉体が悲鳴をあげようとも、精神が廃れて、道行く原色のつがいにわけもなく空虚さを感じても、なんとか休みに向かって詰まった日々を駆け抜けられた。

 

なのに、肉体を酷使してまで求めていた休みなのに、いざ当日を迎えると、急に冷めてしまったような、賢者モードの中、画面越しに喘ぐ女の顔を見つめているときのような、飲み会中急に我に返って、自分の背中を後ろから見つめているような、そんな冷静さが頭を支配していた。

何もない日の有用さを見つけられず、かと言って、洗濯をしたり、掃除したり、読み途中の本を読みきったりと、また始まる日々への貯金をするわけでもなく、あるのに何もない今日をおくった。

まだ、しんどすぎる二日酔いと戦いながら、ごろごろする休みのほうがよかった。

 

この感覚はずっと欲しかったものが手に入ったときのあの気持に似ている。

結局ものを手に入れたいのであって、使いたいとか、読みたいってのは2番目だ。

手に入ってしまったらそれで幕引き。1番満たしたい、手に入れたいという欲求がどうにかなればそれでいいのだ。

 

1日休みも、本も、Macも、LINEのスタンプも、魔法石も、夢も、向かい側に座った見えそうで見えないメンヘラ顔の女性のパンツも、手に入ってしまえば、パンツの場合は見えてしまえば、初めからないのと同じなんだろうな。欲と引き換えに手にしたものは、欲よりも大事な価値を見いだせず、頭蓋のなかにはあるものとして存在するのに、欲のあった部分を埋められるほど大切なものではないように急に見えてくる。

 

虚無感を抱くくらいなら初めから交換しなければいいのになって、あとになって毎回思う。

手にしている自分を想像しているときのほうが遥かに楽しく、また、それを実現させようと行動しているときのほうが生き生きしているように思えてならない。

 

ただ、休みが有意義なものでなかったから、こう感じるのかというとそうではない。

有意義で生産性のある1日になったとしても、結局は欲と引き換えにー休みを夢見て過ごした日々の活力だったり楽しさと引き換えにー手に入れた休みは欲を超えられるだけの、存在にはなれないのだ。

 

付き合いが始まった男女関係よりも、片思いのときのほうが楽しかったと感じる思考とこの欲と休みの関係は同じだ。

手に入りそうで入らない焦らしが楽しいとかではなく、まだ存在しないものを求めようとする欲求と追いすがろうとする姿勢そのものに楽しさを感じるのだ。

付き合ったらという関係を求め、好意に追いすがる姿勢が楽しいと感じるから、不安まじりの片思いが楽しいと感じるのだろう。

 

手に入ってからは、次に追いすがるものを見つけなければならない。

それはまだ存在してないもので、頭蓋のなかの追い求められる感情でなければならない。

だから、欲しいものは手に入れたくない。手に入ってからは空虚さに耐えなければならないから。

 

あるのになくて、ないのにある。欲とものの追いかけっこで心の底から満足できる日はくるのだろうか。

 

最後に一つだけ。メンヘラ顔のお姉さん、パンツ何色ですか。

 

 

では、また。