ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

世界への接続端子はUSB Type-C

 

まだやっている祭りを早く抜け出して家路につく時。近所のフェスが痴漢までだして盛り上がる中、家で一人その断片的な感想をスクロールしている時。正月やGW・連休中に企画される、見たかった特番を横目に腰を振っている時。前を歩くうら若い男女のつがいが耳を赤くしながら手をつなぎ始めた時。昼過ぎには起きるつもりだったのに目を覚ましたら日が沈んでいた時。僕は急に世界から外れてしまったような感覚に陥る。

 

用意に想像できる楽しさを取り逃がしてしまった気がして急に寂しくなる。

距離感がさほど遠くないこともあいまって、一人だけ置いて行かれたような、自分もその楽しさを享受している姿を簡単に思い描けてしまって、寂しくなる。

正確には寂しくなるのではないが、今のところこの、一人だけはぐれた祭りの感覚を説明できる日本語に出会えていない。

自分だけ遅れをとったような焦燥感と、身動きの取れないことへの嘆きと、悔しさと切なさがまざったあの感じは、定期的に身体を支配しては何事もなかったかのように消えていく。

 

バイトへ向かう電車の中、同じ早起きなのに苦を感じていない、行楽地へ向かう人々にばったり遭遇したあの感覚といえば伝わるだろうか。

 

パソコンの画面越しに人の死や、無実を証明しようと試みた遺書や、フランスの大統領選の予想や、川谷絵音の地上波復帰や、稀勢の里の練習再開を確認して報道する中、忘れらんねえよのフェスの模様を伝えたシューイチが許せない。結局はそういう話に落ち着く。

テレビの向こうで笑う人たちと同じように、同じ場所で笑っていた可能性がある気がして、想像の虚像を模索してしまう。

 

自分を取り巻く空気と世界の空気が同期できていない気がどうしてもしてしまう。

 

ただ、あの子とグループでフェスに行ったやつを僕もまた恨んじゃいない。なんなら僕はその日の予定をあけてすらない。

連日更新される河川敷でのBBQの模様を僕はなんとも思わないが、アツってなる時に備えて軍手ぐらい買っとけよって思う。

 

楽しそうに笑う人たちと自分を比較して、つまらない日常に嫌気がさしているわけではない。ただ世界との繋がり方を混線の中見つけ出せない自分が嫌なのだ。

未だにiPhone5sを使っている僕と、世界の流れは違うのかもしれない。

僕は未だにノールックで指すとUSBの向きが逆になる世界にいる。

裏の裏は表現象を嫌ってほど味わってきた。これ向き逆っぽいなと思うとだいたいあってるパターンを、幾度となく僕は経験してきた。慢心から強く押し込みすぎて、中のビラビr、なんか出っぱってるやつを曲げたこともあった。そのたびに不合理な便利さがなぜだか愛おしく思えたりした。

 

シンメトリーコネクタとかいうハイテクが、たいしてこだわりもないのにすぐ新型iPhoneに乗り換える奴らが跋扈する世界とはどうも違う波長が流れているっぽい。

そういった面で「繋がり」が面倒くさいと感じる人が増えているのかもしれない。

 

双方向可、通信速度は通常の5倍、向き不問。そりゃ誰だって疲れる。

 

誰も聞いちゃいない川谷絵音への怒りを撒き散らす人々、ライブを楽しむより女性を触りたくなっちゃう五反田あがりの男が参加するフェス、DNAまで一致した今治市の容疑者への取り調べを行った警察に、掌返しの批判が殺到する、遺書を残して死んだもんがちの世界、無法地帯ともとれる僕がまだいない世界のことを考えると、別に波長が同じである必要はない気もしてきた。

あれ。

 

とにかくだ、師匠の言う、君のいない世界のスピードについていける云々ではないが、時折爪弾きにされたような気がしてしまう頭のない世界。教室の中での息苦しさに似たそれは、多幸感をもって僕らを置いていったことを伝えてくる。

 

自衛の策というわけでもないが、批判が批判を呼び批判になる世界とは方向を問わず接続できる端子で繋がるのは避けていたい。

都合の悪いときに、心を痛めず軽薄になれる世界とは、方向が正しくなきゃ繋がれないくらいがちょうどいい。

 

今こそUSB3.0にもう一度天下をとらせる時。

 

では、また。