ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

母を殺したことに思い出される『高瀬舟』。

 

森鴎外の作品に『高瀬舟』という作品がある。

高校時代に読んだ人はおそらく同年代だと思われます。

 

この作品において、喜助がとった行動が正しかったのか否か、僕は、いや、世間全体は結論を出せる日が来るのか。今日ニュースを見ていて思いました。

 

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2日続けてストレートニュースを扱う日です。

ニュースにさほど興味なくても読めるよう、小説に触れながら、介護と殺害について考えたいと思います。

 

ちなみに『高瀬舟』読んだことない人は

森鴎外 高瀬舟

 青空文庫で読めます。

 

 

介護問題に関する殺害を扱う意見は、若年層が減っていること、国の対策が悪いことが結論として挙げられることが多いように思われます。

悪者探しで、喜助の行動の是非を決められればいいのですが、そういうわけにもいかないのが難しいところです。

 

というのも、喜助も、このニュースの容疑者も(容疑者の主張が本心であるものと仮定して)苦しむ親族を助けてあげたいという、善意を少なからず抱いているからです。悪者がいたら、苦しむ親族を楽にしてあげたいとか、楽にすることを頼まれて葛藤することがなくなるか、といえばそうではなくて。介護への対策を手厚くしても、減るのは介護を苦にしての殺人だけではないでしょうか。

 

薬の服用で母が苦しんでいなければ、もちろん殺人なんて起きていないでしょうし、6年間介護を続けてきたということが、少なくとも苦だけでの殺害ではないことを、示しているように思えます。

 

なので、悪者探しでは喜助も、この容疑者も救ってはやれんのです。

善意でやったけど殺人は殺人となるのは仕方ないとして、でも、サリンを撒いて人を殺めた犯人と、同じ犯罪者という肩書を背負わせるのは、制度上とはいえ、少し腑に落ちないのです。心が痛いよで片付けられればいいんでしょうけど。

 

明確に言いきれはしないけど、僕は喜助が弟を楽にしてあげたことが、別に悪いことではなかったと思います。

罪を犯したという点で見れば確かに喜助は手を染めていますが、ジュリエットが言うように名前って何という話です。肩書ってなんですか。

 

喜助は晴れ晴れとした顔で高瀬舟に乗っていたようですが、羽田庄兵衛が言うように人殺しなのかどうなのか、ということを決めあぐねてしまう問題に、ルールは釈然としない回答しか与えられないのです。はたしていったい弟殺しなのか。

 

今回の苦しむ母の首をしめた容疑者も同じで、これは母殺しなのでしょうか。

殺人は殺人であっても、情状酌量の余地を裁判で認められたとしても、人を殺すという行為はどこまでいっても人殺し。

けれど、医者じゃどうにもできない苦しみを抱える家族を見て、薬で苦しみながら死を待つ家族が痛ましく見えたとして、生かそうとするのもエゴではないでしょうか。

 

 

少し前に、同性愛者を暴露されたことが原因で一橋大学の学生が自殺した事件が話題になりました。

事実を伝えられた側は、重い事実を1人に背負わせてくるなよ、という思いがあったようです。

伝える側も、伝えられる側も、苦しむ姿を見せる側も、見せられる側も、みんなエゴのうちに、一人ではどうしようもない状況を作り出すことが、往々にしてよくあります。

 

苦しむ親族を目の前にしたらこれと同じように、重い事実を背負った状況でどうすることもできなくなります。その中で喜助や容疑者はひと思いに、という選択肢をとりましたが、その気持も今では分からなくはないものです。

 

善意があること、1人で考えるには重すぎること、人の手を借りるのだって容易ではない生活で、自分の肩の荷を、誰からの文句も言われないように下ろすのは、困難を極めます。

 

目の前の人が楽になって欲しい。そう思うことも難しい。 

無罪じゃないんだけど、無罪な気がして、殺人なんだけど、殺人じゃない気がして。

 

可視化された肩書を、スマホ内の画面をクリックするみたいにして詳しく閲覧できるようになったら与えられた肩書は意味を持つんですかね。プライバシー云々で揉めるのは目に見えてますが。

 

 好奇心は猫をも殺します。はたして善意は人を殺すのでしょうか。

 

 

では、また。 

 

 

今回の容疑者に対する考えは、供述を額面通りに受け取って執筆したものです。

善意ではなく、それ以外の感情による殺害であった場合、擁護する記事と見なされぬよう一応記載しておきます。