ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

ぬいぐるみ。

 

そんな趣味もなければ、一緒に寝るわけでもない。

なのに、時々ぬいぐるみを買ってしまうことがある。

今は流石にそんなことほとんどないけども。

 

もちろん急に店に行って買うわけではなく、お土産代わりにくらいの感覚なのだが、使い方を知らないで買うもんだから、僕の部屋には、行く場所を失ったかわいい奴らがべットの脇に転がっている。

 

かわいい目をしてるから、捨てられるはずもなく、かと言ってこれと言った活用法はない。

抱きかかえようにも、肩幅はないから抱きしめた質量の安心感を期待することはできない。

 

どうしたらいいんだ。

ネズミーマウスよ。そんな顔でこっちを見ないでおくれよ。

まるで僕が育児放棄しているみたいじゃないか。

 

冬場はなんかかわいそうだから、タオル掛けてあげたじゃないか。

ときどきみんなまとめて布団に入る時あるじゃないか。

 

バトルロワイヤルでも起きたのか、みんな横に落ちていたけれど。

 

 

UFOキャッチャーでたくさんぬいぐるみを取っている人はどんな気持ちなのだろうか。

 

お気に入りの一体がいるわけでもないが、なんか特定の子だけを布団に招き入れ歓迎するのは、他の子達に申し訳ない。気がする。

意識があるわけないんだろうけど、大切にできていない気がしてかわいそうになる。

 

平等だとか、博愛だとか、道徳心を全面に押し出すことは、ほとんどないことに定評があるにも関わらず、ぬいぐるみの無垢な目に見つめられると心が痛くなる。見なきゃ思い出せないくらいの立ち位置に追いやってごめんって思う。

 

 

まぁ、一緒に寝たら寝たですぐ落とす僕が言えたことではないが。

 

 

飾るというのが一般的なぬいぐるみの使用法なのか。

 

もしそうだとしたら、ぬいぐるみはどんな気持ちで、持ち主の暮らしや、家の外に広がる光景を見つめているのだろうか。

 

こんなはずじゃなかったって思うのかな。

 

意識の外に追いやられて、家に招かれた初日以外は、半ば忘れ去られたような立ち位置で、来る日も来る日も何があるわけでもない暮らしを見つめ続けるだけ。

 

失敗した、こんなところに来なければよかった。そう思うのだろうか。

 

もっと違う生活があった。もっと豊かに生きたかった。もっと大事にされたかった。もっと幸せになりたかった。

そう思っているのだろうか。

 

トイ・ストーリーみたいに持ち主がいなくなったら、動き出して会話でもしているのだろうか。

もしそうなら、感謝されることはなく、どう抜け出そうか考えているんだろうな。

 

ないものねだりであっても、違う現実を選びたかったよって。

そう思っていると考えてしまうのは、僕が彼らをそう扱っていると、感じているからだろうか。

 

やるべきことがあって、夢があって、直面した現実があって。

やりたいことをやろうとする時、他の人は意識の端っこに流れていく。

 

視界の端っこのような意識の外側で、最後に会った時の顔のまま笑うあの人達は、今どんなことを思って暮らしを見つめているのだろうか。

もう笑顔を更新することはないかもしれないけれど、これでいいのだ。と笑っていたらいいなと思う。

 

食器を洗いながらそんなことを考えていた華の金曜日。

 

では、また。