ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

東京には魔物が住んでいる。

 

言わずもがなな話ではあるが、東京と名を冠する曲は往々にして名曲である。

 

くるりの東京を筆頭に、きのこ帝国の東京、踊ってばかりの国の東京、People In The Boxの東京、plentyの東京、ガガガSPの東京。表記は違うがcinema staffのTokyo Surf.

 

各アーティストにとっての東京は、時に色鮮やかに時にセンチメンタルに僕らの耳に入ってくる。

 

けれど、「あなたに出会えた街」が、きのこ帝国の東京で

小田急沿いを彷彿とさせる、「わけのわからないことを言っている」街がくるりにとっての東京であるように

「意外と悪くないこの街」がcinemaの東京であるように

 

センター街を歩く派手な髪の若者にとっての、歌舞伎町を歩くスカートの短い女子にとっての、上野で昼から顔を赤く染めているご老体にとっての、東京はきっと姿が違う。

 

住んでいる人よりも、通う人の方が多い街。東と西じゃ雰囲気が全く違う街。目的がなければ人混みに流されてしまう街。みんなが夢を抱く街。

 

東京には、魔物が住んでいる。

 

 

天気予報の中継で映った渋谷のスクランブル交差点を見ると、楽しいことが埋もれている街のような気がしてしまうが、実際に歩けば、歩きづらいだけで、記念写真を撮る外国人しか目につかない。

 

スクランブル交差点を歩いてる僕は、風景の一部として、テレビの画面越しの誰かに、あの街に行ってみたいと思われているのだろうか。

 

昼夜問わず楽しそうに道を歩く人々は、この街のどこを気に入ったのだろうか。

 

溢れ出た膨大な情報に、同じ広告が何度も流れるLEDに、人を追い越す電車の乗り換えに、白い煙が浮いた居酒屋に、諦めの悪いキャッチに、網膜に焼き付いたタクシーのテールランプに、楽しさを見出したのだろうか。

 

 

東京には、甲子園とは違う魔物が住んでいる。

 

 

あそこにはなんでもあると、ないものは1つもないのだと、莫大な物質量と夜景の一部になった高層ビルを見ると錯覚してしまう。

 

住む場所が違っても、電車に乗ればここで、あの娘に会うことができる。

騒ぎあった仲間と今でも一緒に騒ぐことができる。

最先端のショップで、最先端のものを買って生活に還元することができる。

明らかに歳の離れた男女のつがいが、欲を吐き出しに向かう姿を見ることもできる。

 

でも、絶え間なく消費を続けるこの街に、僕らは何を生産しに行っているのだろう。

 

何かできるという錯覚を魔物にさせられたのか、はたまた魔物を夢や希望だと錯覚したのか。

 

満員電車に揺られ、椅子取り合戦を繰り広げる帰路に空っぽを感じてしまう。

 

僕はあの街から何も持ち帰ってこれはしないのだと。

 

あそこに行かなければ、糧にしたい記憶を続けることはできないのだと。

 

 

 

人々の幻想を喰らって生きる東京の正体すらろくにわからず、この街で記憶で留めた過去の続きを延長させる僕は、酒を飲むうちに、終電を逃すたびに、明日なんかこなくていいのにと逃避行を続けるうちに、

麻雀をするたびに、ダーツをするたびに、ビリヤードをするたびに、買い物をするたびに、スマホを片手に待ち合わせをするたびに、こぎれいなカフェに入るたびに、何を求めていたのか分からなくなる。

いったい何の目的があってここに来たのか。きっと元々持ってなかったんだと思う。

けれど、何かあったような。

どこかで、なんでも出来る街なんだと感じた自分がいたような、そんな既視感がずっと残っている。

 

そうして、僕はただ楽しそうだと錯覚させる風景になっているのかもしれない。

 

 

東京じゃ、消費も娯楽も大元の欲でさえみんな風景だ。

絶えず誰かが、風景として切り取られる。まるでなにもないかのように。

 

もちろん、周辺のベッドタウンから出てきた人たちや都民が働く場所として、エネルギッシュな街の一面を持つことは、重々理解している。

 

けれどそれさえも、毎日、毎月、毎年なにも変わらない風景であると感じてしまう。

 

魔物が描く物資として風景。

 

東京には魔物が住んでいる。

雑踏が嫌いな方々、そう思いませんか?

 

 

では、また。