ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

文学は死んだってそれ本当ですか?

 

サイズの大きいTシャツやシャツを纏い、ワンピース代わりとしている女子はみんな可愛く見えるな、と思いながらスタジオに歩く三軒茶屋の道。

 

はやい時間から外に置かれた席で酒を煽るこなれた社会人ですら、生活に潜む毒芽との向き合い方を心得ていると思うと無性に羨ましくなって、歩いていく道だから老人をバカにしてはいけないという訓言を思い出した。

 

今の生活は、どうにかしがみついて保つこの生活は、言うほど悪いもんじゃない。

なんてことは皆が思い、その度にぬぐいきれない不安をどうにかするための、かき集めた1つの言い分に仕分けしてしまうのだろう。

 

比較の中で幸不幸や、恵まれてること・恵まれてないことを認識できるというのは幸せなことだ。尺度をつかめれば立ち位置が自ずと分かる。どこかにあるユートピアまでの道のりだって分かるかもしれない。

 

僕の研究している文学ないし芸術というものは、この比較というものが主題となることが多い。

なぜそうなるのか。これに対してあらゆる面から比較して証拠とする。

 

文面の比較、文化の比較、思想の比較、過去と未来の比較。

ありとあらゆるものを疑い、そこに打ち立てた仮説を真とするためにいろんなところから疑問を拾いそれに対する回答を再現してみせる。

 

分かりやすく言うと、夏目漱石の『こころ』であれば、なぜ先生は遺書で懺悔を残し死んでいったのか。とか中島敦の『山月記』なら尊大な羞恥心と臆病な自尊心とはどういった考えに基づくものなのか。とかそんな感じ。日本の文学は専門外だから詳しくないけれど。

 

まぁ、言ってしまえばそれまでだし、それが化学や物理学、医学のようになにか特定のことに成果をあげて役に立つわけでは残念ながら、ない。

 

ただ、谷川俊太郎も述べているように、哲学の成り立ちもそうであるように、対象を疑うということは能動的なものであって、ここに人間が思考を持てた根幹があるんじゃないかと僕は思う。

デカルトもプラトンもスピノザも、知的な精神作用とされる”思惟すること”というものを立ち返る点に置いていた。

 

これは「人間とは何か」換言すれば誰もが知る一節「なんのために生まれて、なにをして喜ぶ」に対する1つの回答を科学とは別の見地から導き出せると思っている。

あくまで思っているだけでそれが是とされるかは社会の問題だけれど。

 

言い訳するわけはではないけれど、レイブラッドベリの『華氏451度』のような世界に、ジョージオーウェルの『1984年』のような世界になってしまっては、学問なんてなんの意味もない。

2+2=が5にでも、3にでもなる世界には懐疑も思考も必要ない。

 

 

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2+2=の元ネタ:ソ連のプロパガンダポスター

https://www.pinterest.jp/zonzoweb/soviet/ 

 

求められるのは矛盾を受け入れること。懐疑があっても与えられたほうを正しいと信ずること。いわゆる「二重思考」だけだ。

読んでなければわからない表現になってしまって申し訳ない。

二重思考 - Wikipedia

 

数式というのは結果の提示だ。2+2=が3とされる世界ならそれが結果となってしまう。

それを疑いながらも、与えられたものをただ受け取る人間を、長い闘争の末に自由な思考を手に入れた人間と誰が言えよう。

 

もし言えないのであれば、それは僕らが疑うこと、懐疑を出発点としてものを考える「人間」だということだ。

 

文学はこの懐疑に重きをおいている。

そんなことしなくたって作品が読めばそれでいいじゃないか。という意見を耳にするが、それなら本の批評や映画の批評サイトはここまで人気になっていないだろう。

自分の感想が間違っていないか確認することもまた、懐疑から始じまるものだ。

 

知らず知らずの内に行っている懐疑。

作品を読み解き、考証の後に何が描かれ、何を受け取って実生活に持ち帰ればいいのかを明確にするそれは、確かになくたって生きてはいける。

けれど、”文学作品がなければ”、”示された人の考えを疑い比較し、現人間を描き出す道筋”がなければ、僕らは数式を受理するだけの機械になってしまう。

 

どう生きればいいのか。どうあるべきなのか。我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。それにあたる答えを導くのは数字ではなく思考だ。

言葉を額面通りに受け取り、ストーリーを追いかけることはもちろん大事なんだけれど、そこから何を読み取れるか。それを考えることが大事なんじゃないかと思う。

そうやって読み取ることで、僕らは比較して何が幸せでどこが恵まれているかを明確にできる。

 

文学はきっと死なない。人がものを考えられる世界にいる限り死にはしない。そう思う。答えが定められていない問題に唯一向き合える学問だから。そう思う。

 

共謀罪が法案化され、北朝鮮情勢は緊迫のまま、「イスラム国」の指導者バグダディは死んだかもしれなくて、イージス艦には民間商船が衝突してる。目まぐるしく動く世界情勢と、分からなくなる明日の行方。世界に少しでも不安があるのなら、文学が、文学作品がもしかしたらその不安を取り除いてくれる一因になるかもしれません。

 

紆余曲折して長くなってしまったけれど、最後まで読んでくれてありがとうございます。

 

わけの分からないものではなく、本を読みとくことにも意味があるんだ。ということが少しでも伝わったなら幸いです。

 

文中で触れたジョージ・オーウェルの『1984年』は思考が許されなくなった世界を鮮明に描いたSF小説です。これにフォーカスした書評も近々ちゃんと書こうと思います。

 

 

では、また。