ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

ドラマのような結末。

 

たとえしばらく会わない人がいても、

たとえしばらく会えない人がいても、

どっかで呼吸してんだろうなって感覚は常にある。 同じ空の下的なことではないんだけれど、人との繋がりってSNSのような画面越しのものだけでは決してない。

 

 

以前浅田真央さんの引退に関する記事を書いた時、日本人は少年マンガのようなストーリーを応援するのが好き。と書いた。

 

http://www.shitazesan.com/entry/2017/04/13/浅田真央を連載するなら少年誌。

 

これは国民性のようなもので、仮に応援する人がなんであろうと、2次元の世界であっても、直接の知り合いでなくても、日々更新されるブログの写真でしかその人のことをみられなくても、かなりの痛みを持って逆境に立ち向かおうとする人を、応援するのがやっぱり好きみたいだ。

 

バンプの「宝石になった日」という曲のように、〜の日という言葉は僕らの想像力を掻き立て力がある。

市川海老蔵の「人生で1番泣いた日」という言葉もそれの訪れを想像させるには充分すぎた。

 

海老蔵のブログや小林麻央さんのブログは業務上どうしても読まなきゃいけないときがあって、見たくもない心に刺さる衝撃的な写真や、ほっこりするエピソードを見て、それが期限付きの幸福であることに一抹の寂しさを感じていた。

 

うなぎが食べたいと頼まれ、海老蔵が久しぶりの食欲を喜び高級なうなぎを買っていったら、小林麻耶さんのリクエストだったエピソードや、

自宅療養に切り替わったとき、暗に意味するものからあえて視点をずらし子供の幸せを祈ったエピソードだったり、

全部読みきったわけではないけれど、そこには憂いを帯びた強さがあった。

 

分かりきった結末があるはずなのに、時には弱さを見せつつも希望を切り抜いて文字にする2人のブログには、漠然と「希望に向かって頑張ろぜ」というドリカムやいきものがかりのような薄っぺらさはなく、1日でも長く笑顔でいられるように応援したくなるなにかがあった。

 

それが儚さであったり、病気であることの補填だったらこんな悲しいことはないけれど。きっとそれは、ただ願いや祈りを持ち出すんじゃなくて、どこかで折り合いをつけていたからなんじゃないかなと思う。

諦めとは少し違うけど、避けられないことはどうしようもないというような。

 

会ったことない人だし、他人といえば他人なんだけど、もう彼女は呼吸をせず、意識すらないと思うと悲しさと同時に怖くなる。

物理的な死の側面は、概念的なものよりもはるかに怖い。

 

概念は自分が向き合うものだから自分の認識の中での話になる。けれど物理的な肉体としての死は、自分が向き合うものではなくて残された側が直面する事実だ。だから1人ではどんな対処もできない。どうしようもない。

僕はこれが怖い。死が地上にも残ってしまうことが怖い。

月曜の朝と1人で食べる昼食よりも。なによりも。

 

頑張ってという意識を集め、応援したくなるような緩急ついたエピソードがあって、最後は奇跡を起こすのではなく旅立ってしまう。

安いメロドラマなんかよりはるかにドラマ的で、御涙頂戴の24時間テレビより遥かに心にずっしり来る。

 

これが現実におかれた死なんだなと。

 

一部ではあっても日常を見ていたわけだから余計にこう思うのかもしれない。

 

けれど後味の悪さはないように思える。

人の心が無いと、残された人のことを考えられないのかと言われてもいい。

 

そりゃ、2人の子供ともっと一緒にいたかった。とか、容姿が変わっていく恐怖とか、なんで私だけ。とか考えていたんだろうなと思うと、不条理極まりない話だとは思う。

けれど、葬式で泣いてくれる人がいたらいいよねって話にはみんな概ね同意するじゃないか。

これはそういう話じゃないのか。

 

夫に人生で1番泣いてもらって、実家で旅立てた小林麻央さんの最期はある意味でよかったね。と言えるものだったんじゃないかと僕は思う。

 

2人のブログがそうであったように、悲嘆するのではなく希望を持てるものとして受け取るほうが、ブログを書き始めた本人の意向に添える気がする。

 

最初にこのブログを見た時に、死んだら美談にして、出版して、それで終わりなんでしょって思っていた。どうでもいいような話で御涙頂戴して終わりなんでしょって。

 

けど長いこと見ているうちに、人一人が生きていく力強さにビックリした。

24時間テレビ的な、どうせ金なんだろっていう偏見を抱いてしまったことを今では申し訳ないと思う。

 

今だけは、キリスト教的な世界のように、肉体と魂は別個のもので、魂は肉体活動の停止後に仮の器を脱ぎ天上に帰っていくという世界観が実在していたらいいなと思う。

充分に死ぬ恐怖と戦った彼女が、そこで安心できていたら少しは報われるんじゃないかと。そう思ってやまない。

 

では、また。

 

P.S.

よくよく考えたら歌舞伎の家系の人なんだから、存在するなら仏教的な世界観ですよね。