ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

ボトルガムの付箋にものたりなさ。

 

少し前に上陸したかと思えば、気がつけば食卓に並ぶまでに市民権を獲得したチーズフォンデュ。

今や食べ放題店のデザートには欠かせないチョコレートファウンテン。

サイズと釣り合ってない値段でおなじみのマカロン。

どれもみな美味しくて、1回で何個も食べてしまう。けれど、何度も食べてしまうほど美味しいのに、味に見合わないものたりなさがある。

 

お酒を飲みながら食べるチーズフォンデュは格別だし、プチシューをチョコに浸すと最高に美味いし、高級なマカロンはそこらへんで売ってるものよりか上品な甘さがクセになる。確かに食べ終わったあと満足はできる。でも何かが足りない。そんな感じがしてしまう。

 

味は申し分ないのに感じるこのものたりなさ。この感じはボトルガムの捨て紙と一緒だ。あの付箋みたいなやつ。

 

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Google画像検索ーボトルガム 付箋

 

ガムに対しての個数が圧倒的に少ないだけではなく、あの付箋はガムに対して小さすぎる。

 

包むんじゃなくて貼り付けて。付箋だけにね。と言わんばかりのサイズ。あの付箋はガムを噛んでいると圧倒的にものたりない。もう一声欲しくなる。包みきれないからガムははみ出てくるし、ゴミ箱に投げ入れられる安心感もない。下手すると内側に張り付く恐れもある。

 

仕方ないから2~3枚使って包みきるようにしている。集合させてひとまとめにしないとガムを包めない。1つでは満足できないから強引に数を使って尺を稼いでいる。

 

このものたりなさはチーズフォンデュのそれと同じだ。小さい1個1個が集まって大きく見せているだけで、よくよく考えたら小さすぎる。個々の詰め合わせで満たせるほど僕らの空虚さは堅牢ではない。小さな隙間を必死になって詰めていくうちに、他の箇所に必ず綻びが生まれてしまう。

 

ガムは捨てられればいい訳だから、別に貼り付けてでも捨てられればそれでいい。最終的な役割は果たせている。

チーズフォンデュやマカロンも同じように最終的にはお腹に溜まる。求めている味もしっかり味わうことができる。

 

個々をまとめて使うことで、漠然とした満足を享受することはできる。けれど、その小さな1つ1つを消費していくうちに、消費して埋めた他の箇所には欠落が生じて、満たされていない自分が顔を覗かせる。

 

大きな食材の腹持ちがいいように、大きな物質から得られる満足は長持ちする。

小さなハンバーグを2つ食べるより、大きなものを1つ食べたほうが腹持ちはいいし、食べきった満足感は高い。これは物質に限らなくても言える。小出しに言われる「好き」よりも、普段言わない彼女が照れながら「好き」といったときのほうが破壊力がある。これに大きな感動を見出すのは数ではなく大きさ・質が満足度に関わっているからだ。

 

けれど「今すぐに手に入る個数が多いほうが満足できる」と僕らはたびたび錯覚してしまう。毎日言われなくたって1回の大きな好きがあれば満足できるのに、回数の多いほうを求めてしまう。

 

若干意味合いは違うけれど、朝三暮四のようなものだと思う。すぐに手に入れられるものが多いとそっちの方が得しているのではないかと考えてしまう。

この場合は結果的な満足度も違うんだけれど。

 

なんとか繋ぎ合わせたものはすぐほつれてしまう。チーズフォンデュはすぐにお腹が空くし、チョコレートファウンテンはデザート感がなくなってきて、他のケーキを求めるようになってしまう。マカロンは食べた気がしなくなるし、「好き」もより多くの回数を求めるようになってしまう。ボトルガムも安心できる包み具合になるまで何枚も付箋を使って包む。

 

数だけで稼いだ満足では、結局満足しきれない。贅沢このうえない。そのためなのか、数の多さに慣れた僕らをあざ笑うかのように個数で作った満足は端っこから崩れ去ってしまう。

 

1枚でもなんとかなるところを2枚3枚使ってガムを包むような行為では、満足を個数でカサ増しして対処しようとする行為では、結果的に満たされない。ならば、僕らは満たされる1つを探さないといけない。綻びがうまれないように、端っこから崩れ落ちないように、長く形を保っていられる1つを。数の多さに慣れてしまった僕らは今、綻びない1つに足ることを知るべきなのかもしれない。

 

では、また。