ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

マッチ売りの少女を横切る時。

 

ビラ配りはなぜああも邪魔なのか。

 

両手が塞がっていても紙を押し付けてくる。手を目の前に出されすぎて駐車場のゲートみたいになる。配るために寄ってきたのをスルーしたら悲しそうな顔をする。例を挙げだしたらキリがない。

 

受け取らなかったこっちが悪いみたいな顔をしないでくれ。スルーされた悲しさは胸の内にしまっておいて欲しい。それがプロの仕事だろう。

 

受け取らないと可哀想だから。自分がスルーされて嫌だったから。というような理由で、配られたら貰ってあげるという現代では珍しい、優しく清らかな心を持った奇特な人をたびたび目にする。

配る側だって給料のためにやってんだから、そこに思いやりの心はいらないだろう。都市ガスとアルコールで汚れきった僕の心では邪推しかできない。本当はそこまで振り切れたらいいんだけどなと思ってる。

 

優しき人たちと比較したら自分が薄情に見えるのも、スルーしたことに罪悪感が芽生えるのも、元はと言えばビラ配りが道に立っているのが悪い。逆恨みもいいところだけれど、道を歩くだけなのに、気を配らないといけない余計なことを持ち込まれて切なくなる。ただ一瞬のすれ違いなのに生まれる関係性は負の方向。広告活動は全部インターネット上に早急に移って欲しい。

 

 募金だってそうだ。入れなかった奴らは薄情だみたいな空気感を作っている。募金したやつらもやつらで、お金を入れたから自分はワンランク上に上がったみたいな顔をしているが、本当に支援したくて入れてるのかそれ。道を歩くだけで、なんでこんなモヤモヤした気持ちにならなきゃいけないのだ。

支援したいという気持ち。募金を計画して実行するという愚直さ。たしかに素晴らしいことだけど、彼ら彼女らが広がるには道が狭い。駅前では障害物競走の様相だ。

 

他人を思いやる気持ちは確かに必要だと思う。ビルゲイツ氏やザッカーバーグ氏が行う支援活動には感服するし、PKOやNGOの人たちには頭が下がる。こういう気持ちは僕にだってあるし、利他主義なんかクソの役にもたたないとそう言いたいわけではない。

 

1人で乗っているエレベーターに人が乗ってきた時のような、音楽を聞きながら歩いていたら友達に声をかけられたときのような。あ、今1人の時間を楽しんでいたのに、という嫌なわけではないけれど、なんだか惜しい気持ちがビラ配りの人の前を通り過ぎる時に生まれる。無視しているのに結局気にかけてしまうならば、いっその事受け取ってしまえばいいのだろうか。

 

できればこっちに寄ってきて手渡そうとしないで欲しい。結局のところ受け取ればいいのか、自分に従ってスルーすればいいのか分からない。邪魔だなんだと騒いでも、利他主義を排除しきれない僕の道徳性では、どうしたらお互いが切なくならずに済むのか決めきれない。

ありませんか?どうすればあの時悲しさを生まずに済んだのか分からなくなってしまうこと。

 

ビラ配りが邪魔なのか、浮かび上がる善意か偽善の押し問答が邪魔なのか。

殺伐とした都心に慣れすぎて、知らない人との距離の測り方が分からなくなってしまったよ。

 

今日もビラ配りの前を通るたびに、どうするべきか分からなくて途方にくれる。

 

では、また。