ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

勝った人が背負わなきゃいけない責任。

 

夏の甲子園は花咲徳栄が優勝した。

一度部活の大会で行ったことがある以外接点はないけれど、出身県の高校が優勝するのは嬉しいもので、決勝は中継を見て応援していた。

 

下馬評がはっきりと書かれることはなかったけれど、どの番組も広陵高校の中村を特集し、インタビューなんかも放送されて、解説者が入念に分析を繰り返していたところを見ると、広陵が優勝する的な雰囲気ではあった。

 

もちろん、視聴率や話題性を考えると大会にはヒーローが必要なんだと思う。ヒーローがいれば大会の見方もはっきりするし分かりやすい。

清宮がおらず、不安視されていた大会で清原の記録を破った高校球児が出てきたんだから、誰もが飛びつくのは仕方のないことだ。

 

けどね。

花咲徳栄は対戦相手ばっかり注目されて、あんまりにも報道されなさすぎたと思うんですよ。

熱闘甲子園を見れば常に対戦相手ばかりが使われて、今でこそ名が上がる清水はなかなかテレビに映ってなかったように見えた。ベンチ様子も他校が多くて、身を乗り出して声を上げる徳栄ナインはあんまり映っていなかったような。

 

もちろん、僕がそういった見方で見ていたからというのもあるかもしれないけれど。

 

そんな中、花咲徳栄は見事に優勝を飾った。メディアをギャフンと言わせたみたいで少し汚い喜び方だとは、思うけれど、埼玉県勢初優勝と並んで同じくらいそれが嬉しかった。

 

大阪桐蔭と仙台育英の試合が物議を醸したりして、後味悪い試合もあったけれど、最後はお互い死力を尽くした試合をしていて見ていて気持ちがよかった。

 

哲学の精神にもリスペクトがあるように、スポーツにもリスペクトは大事だと思う。

中村はすごいバッターだと対決した後、改めて評価していた徳栄ピッチャーはリスペクト精神にあふれていて、体育会系が社会で高い評価を受けるのも納得できる。

 

 

そんな中ね、毎年甲子園とかスポーツの大会ものを見ていて思うのは、大会にキセキは必要なのかってことです。GReeeeN的なキセキはその試合にしか効能をもたらさないと思うんですよね。もちろん運も実力の内。そんなことは誰だって分かってるし、拮抗した実力なら差がつくのはそんな部分なのかもしれない。

 

弱小チームが優勝常連校を破って2回戦進出を決めたとか、キセキを起こして決勝に駒を進めたとか。そういうことが起きたなら、勝利したチームは勝った責任を勝った分だけ負わないといけないと思うんですよ。

 

トーナメントで勝ったらその後も勝ち進むとかね。他のチームに勝って駒を進めたっていう責任が自ずと発生すると思うわけです。踏み越えた敗者の数への敬意みたいなものじゃないですか。その後も勝ち進むって。

 

じゃないとキセキに負けたチームは報われないじゃないですか。

もちろん負けは負けであるけれども。

 

どうせキセキで勝つくらいなら最後まで起こし続けてくれよと。

キセキでもなんでも1回勝ったからそれでいいってそんなことはないはずじゃないですか。

 

まぐれ勝ちは所詮まぐれで、続いてるところを見たことがない。結局その後勝てないなら、実力が上のチームが勝ち進んだ方が発生した責任を成し遂げられる。

 

次の戦いで負けてしまうようなら、キセキなんて起こんない方がずっといいわけで、それを喜んでしまうときは、たまたま降りてきた蜘蛛の糸を喜んでいるカンダタとなんら変わりない。

 

勝者のチームには勝者としての、敗者のチームには敗者の役割がある。

 

敵チームのことを常に思って、スタンドに手を振り続けてこなかった徳栄の監督はそういうことをちゃんと分かっている人なのかなって思う。

だから花咲徳栄が優勝できて、贔屓目なしに本当によかったと思う。

 

カンダタは蜘蛛の糸を登りきれなかった。

キセキ、ひいては神の気まぐれなんかを享受するなら他者を蹴落とす心じゃなくて、他者や敗者を汲み取ることが大切なんじゃないだろうか。

 

勝ったやつが正義なんてセリフもあるくらいだから、次負けることも勝者の自由なのかもしれない。

けれど、今大会では、「負けたことで、改めて勝つことの難しさを知りました」という名言も生まれた。

 

何に勝ったらではなくて、どう勝ったら勝ちなのかが重要だ。

 

 

では、また。