ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

ミサイルに壊してくれと願うには。

 

 私の住んでいる街はJアラートが鳴らなかったから、ミサイルが太平洋に着弾したことを知ったのは、夏休みボケした体がどうにか午前ギリギリに目を覚ましてくれた時だった。

 

大人たちが盛り上がるのは第一報だから、私が起きたときはもう、テレ東がケモフレ最終回を強制的に放送したこととか、堀江氏が「こんくらいのこで朝起こすなよ」とJアラートに文句を言っているだとか、そんなニュースの残りカスみたいなところをメディアが大事そうに扱っている時間帯だった。

 

「カスはカスでも金や話題になりそうなら大切にしてくれるんだな」と、少し光が差し込んだ気がしたところで胸のあたりがズンと重くなった。

恐怖と慄きが同時に背中から襲いかかってきて、家族が家を出るときにクーラーを消したせいで蒸し暑くなった部屋の中、思いきり布団を被った。

 

 「行きたくない」その一言を言ったところで、夏休みが明けて色めき立つあの白い校舎に登校せず済むとは思えないからか、同い年であるにもかかわらず、自分が数の強者に屈した、弱者だと認めることに一抹の気恥ずかしさがあるからか、はたまたSOSを出しても受信すらしてくれない、スマホゲームに課金することが生き甲斐の、現代代表の肩書きを背負った担任に嫌気がさしたからか、誰にも言えないこの痛みは胸の中で定期的に暴れ出す。

 

嘔吐感のようではあるが決して吐くことはできないこれ。胸のあたりに思いきり指を突き立てられているみたいだ。

振り払うことなんてできるはずがない。いじめられっ子の肩書きを学生社会からかけられた私は一体どうすればいいのか。

 

 布団の中は息苦しかったけれど、出ることはせずに、スマホでニュースサイトを見ることにした。昼に起きたというのにブルーライトが目に痛かった。

使う用がないのが悲しくて、買ってもらった時の嬉しさを思い出して、フィルタリングがかかっていないスマホの使い道を探していたら、ニュースチェックが日課になっていた。自殺のニュースがあるとドキッとするけれど毎日見てしまう。お母さんからご飯の内容が送られてきていたけれど、無視してサイトを開いた。いじめで死んだ子はいないみたいだった。みんなミサイルに期待したのかな。

 

今日の一面は、いつものように北朝鮮のミサイル発射に対して各所が出した声明を掲載しているだけで、『アメリカが北朝鮮本土を攻撃』みたいなニュースは一つもなかった。ちょっとがっかりだ。

 

スクロールしていくと、山で遭難した女性が、保護してくれた警察官を批判し燃えているブログがあるという記事を見つけた。

保護してくれた相手に文句を言えるなんて素晴らしい身分なんだなと思った。なんて肩書きがあればそんな言葉を述べられるようになるのだろう。『大人』であれば可能なのだろうか。

だとしたら私はまだ自分の悲劇に酔って死ぬことはできない。やり返してやるとは思わないけれど。でも、いつか批判くらいしてやりたい。「おまわりさん見て!この人達が人の上に立ちたがる人なの」と。

 

実際そこまではできなかったとしても、いつか、いつか、あの子達が私より不幸になってくれないかと思ってしまう。先生に怒られるとか、両親に叩かれるとか、そういうことでいいのだ。それでいいのだ。それでいいから。

 

 ブログを書いた女性は、警察の態度に腹を立てているみたいだった。助けを求めた人に高圧的すぎではないのかと。そう主張していた。けれど、山にコンパスや地図を持たないで入るほうが悪いと言われていた。

 

持ち物を準備して望めば、滞りなく終わるのに、なぜあの女の人はそんな簡単なものすら準備しなかったのだろう。理科の授業で使ったコンパスも社会科の授業で使った地図も、まだ捨ててなかったら私のこの苦しさも滞りなく終わってくれたに違いない。

 

いや、この遭難した女性のように、コンパスを持たない私だからこそ、もしかしたら保護してもらえるのかもしれない。行きたくない学校から。下を向いて座り続ける教室から。

 

けれど、それが家族の心配や私自身への嘲笑の視線を生むと思うと、保護されることが最善の策ではないような気がしてくる。

 

 人に見られたくない。他の学校の同じ肩書きの子はどう思っているのだろう。見て欲しくない人が誰なのかはいまいち分からないけど、恥ずかしさは何よりも先に立っていた。

 

だけど、校舎から飛ぶ子の気持ちはすごくよくわかる。見られたくないけど、見せつけてやりたいという気持ちはある。あの子達の青ざめた顔を見られないのは悔しいけれど。

 

 そもそもだ、クラスのリーダー的な男子と仲がいいからってあの子達の肩書きが上の上になるわけじゃないのに。威張って、自分の肩書きを守るために共通の敵を作り出して、ダサいことこの上ない。

ずっしりと重い心の中ではなんとでも言えるけれど、口から出てくるのは曖昧な笑みだけで、情けなさをこらえる自分が恥ずかしい。涙が目に浮かんでいないか。そればかり気にしてしまう。泣いたら負け。なんてことはないけれど、あの子達の前で、匿名を決め込んだあの人達の前で、泣きたくはなかった。並行してお母さんの顔は思い出さないようにしていた。思い出したら絶対に泣いてしまうから。

そうすると、泣かないことが一種の強さであるような気がしてくるし、泣いてない自分はまだやれるような気がしてくる。

サイトに上がっていたコラムによれば、いじめが苦しかったら無理せずに周りに頼るのがいいらしい。そんなことは分かってる。学校の集会では相談員を名乗る優しそうなお姉さんが、「なんでも言ってね」と熱弁振るっていた。

 

優しそう。というのも考えもので、その相談員の人は声の大きい生徒に人気になって、とてもじゃないけれど、私が近づけるような状況ではなかった。

きっとあのお姉さんだって宿題が難しいとか、クラスのあの子の態度がおかしいとか、プールを休むのが恥ずかしいとかそんな話を聞いてるほうがいいんだ。だって、そうでしょう? 掃除も給食当番も、日直も委員会も、楽な仕事のほうがいいじゃない。近所のお兄さんは彼女の「なんでも力になるよ」がうざったいって言ってたよ。「自分すらまともに運営できないのに他の人を救えるのかよ」って。

 

 学校生活は大人達の社会の縮図だから。大人が思ってる以上に子どもはいろんなことに敏感だし、いろんなことを見ている。会社を簡単には休めないように、私たちだって簡単には休めないのだ。

体が大きくて、歳を重ねたせいか、それだけのことで?と問題を一蹴してしまう大人は多いけれど、直面した問題は常に当人にとっては最も重要で最も大切はものでしょう? 私からすれば、昇給しないとか、ボーナスが低いとか、福利厚生が悪いとか、彼女の誕生日プレゼントを決められないとか、そんなことよりも9月1日のほうが問題なわけ。

 

1カ月半の休みで、何事もなかったように学校生活が始まらないかと、この夏休み中毎日思い続けてきた。あの子達がなんで私をいじめていたのか忘れて、他のことに夢中になりますようにと。

 

 9月1日がもうすぐやってくる。頼んでないのに勝ってにやってきては、もう学校ですと。逃げ場はないんですと通告してくる。学校なんてなくなってしまえばいいのに。

休みが続いて欲しいから、夏休みの宿題が終わってないから、こう願っている子だっているはずだ。数が集まることが強いなら、この願いは強いはずなんだから叶ってほしい。

開発地に出来た新興住宅地からは流星なんて見えないから、寝ている間に日本列島の遥か上を通過していったミサイルに祈ってみる。

 

「学校に落ちてくれないか」「いや、私の家以外を燃やしてくれないか。」「あいつらの家だけを燃やしてくれないか。」「私がもう苦しまないで済むようにしてくれないか」

 

頭上すれすれをかすめていくだけで、願いごとは叶いそうになかった。

 

  3学期制の2学期は長い。私からはこういうわけで無理だから、誰かが勝ってに気づいて勝ってになんとかして勝ってに私を救ってくれないかなと思ってしまう。

 

NPOが注意喚起を積極的にしてるみたいだから、それで周りの大人が変わったらいいのにな。

 

そうだ、私はまだ死なないで、そういう人助けをしよう。そう決めて毎日頑張ったら私は私を救えるような気がする。

 

そうしよう。そうだ。そうなったらいいな。