ドストエフスキーを読んだと嘘をついた。

だから意見、お貸しします。

友をふるいにかけてまで。

 

 

 

新年明けましておめでとうございます。

皆さまは年越しを感じられることをしましたか。僕は年越しそばを食べられなかったことを未だに悔やんでいます。

 

さて、新年のあいさつはほどほどに、また更新を頑張っていきたいと思います。

豊富や2017年の振り返りはまた別の記事で。

 

 

1年1年前重ねるごとに、それが誕生日だろうが、新年だろうが、「節目」というものに直面するたびになんだか全てがリセットされたような気がする。

カレンダーであれば日付は1からやりなおし。ついこないだまで二桁もあったのに。あのやるせなさったらない。積み重ねた12カ月をないがしろにされてる気がする。

 

師走の忙しさにあてられたのか、世の中の流れに感化されたのか、人々は自分の1年を振り返り、まとめなんてものを作ったりする。

有線大賞や紅白なんてのはまさに典型的な例だ。

あんなのあったねって会話が微笑ましかったりする。

 

 

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そんな中で、最近話題になっているのがSNSの身辺整理だ。LINEの友達。ツイッターのフォロー・フォロワー。Facebook、Instagramの関係者。

堰を切ったように、年末になると整理したくなる人や、それを応援するようにたくさんの記事や特集が出回る。

 

ミニマリズムや断捨離を異常なくらい好む日本人らしいといえばらしいのだけれど、整理したいのは、見かけよりも気持ちなんだろうなと思うとなんだか切ない。

ナルトのイタチかと。そう思ってしまう。

繋がりを切ることで強くなる的なね。そんなことないじゃんって当事者じゃないときは思うんだけれども。

 

身辺整理ってのは気持ちの問題によるところが大きく、実質的な利点というのはそうないような気がしてしまう。

多くのものに囲まれてようと、少なかろうと、数の多さに振り回されない人はたくさんいる。目に見えるもの、触れるものにこだわる物質主義的な側面はここ数年でさらに加速しているような気がする。

 

そんなSNS上の整理が流行る中、同年代の友達と飲むたびに思うのが、友達だと思っている人との関係性である。

 

僕よりも年を重ねた人は、顔を真っ赤にしながら、いずれ関係は途絶えてしまうのだから今大切にしとけと言うけれど、時代が変わった今、その金言は通用するのかと、つい勘ぐってしまう。

 

フォロー、フォロワーになれば整理が必要なくらい関係が密接になってしまう世の中なのだ。

年を重ねるごとに、友の選抜が起こることはなんら不思議ではない。

 

会うたびに、生活環境が変わった友が笑い話を発するたびに、なんか違うんだよなと思ってしまったことはないだろうか。

 

そういう口角を上げづらい会話が続くたびに僕らは、その後のやりとりを減らして、関係を希薄にしてしまう。

ARやVRが発達しきる前に、僕らの世の中はSNSを通して認識してするようになってしまった。

それが悪いこととは思えないのだけれども。

 

ボタンひとつで関係を解消できるように、いわゆるリアルの関係性もまた、スクリーン状で管理できるようになってしまった気がする。

 

会うたび、会うたびに友達をふるいにかけて、話がわかる人だけと関係を深めていく。

見たい情報だけを見られるSNSと同じように、僕らは現実で見たいものだけを見るようになってしまっている。

 

SNSの身辺整理が先立って、関係が途切れてしまった昔の友達は今見ている現実を変えたのだろうか。

 

そんなことで悩んでるのかよ、とか、そんな理由で別れたのかよ、とか、いつからか価値観が変わってしまったあの頃の友達は、今も共通のの誰かと「繋がって」いるのだろうか。

 

なんか違うのは僕だったのかもしれない。と、結婚式誰呼ぶ?なんて話しで盛り上がるグループの中でふと思う。

身を軽くすることにばかり注目しすぎて、心を楽にすることばかりに注視しすぎて、ネット上で連絡を取らなかったら、もう関係は破綻したという現代の価値観にとらわれすぎて、確実にあった楽しい時間までもなかったことにしてしまったような気がする。

 

今は違くても、当時は本当に楽しかったはずなのに。生活環境なのか、金銭含む物欲や、物質主義がそうさせたのか。

戻れない日を思うと同時に、関係の切れてしまった友の笑顔を思い出す。

 

なんか違うと、もういいやの境界がわからなくなってしまった。

SNS疲れが言われて久しいが、希薄になってしまう関係を保ってくれるのもSNSなのだ。

ニーチェの深淵を覗く状態になっている。

 

友達をふるいにかけて、そりゃ残った人たちはもちろん大切なんだけれど、落ちていく粉の少なさに、自分で自分の交友関係を狭めたんじゃないかと後悔が出てくる。勝手にSNSなんかに疲れなければよかった。

 

向こうが今も僕のことを覚えていると、そういう前提がすでに、触れられる存在を重視する物質主義に傾倒している証なのかもしれないけれど。

 

世代が変わった今、僕らは人生の関門を待つことなく、交友関係を自ら決めてしまえる。

ほんとうに大切なのは数字じゃないなんて価値観が確立されて数年経つけれど、今もまだ気軽に連絡をとれる人の数というのも貴重なのかもしれない。

 

僕らはふるいを振りすぎた。

 

では、また。